神戸市長田区の酒造の起原

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現在の神戸市長田区などの神戸・兵庫エリア村々には小間物屋・酒屋の1、2軒あるほかは、ほとんど農業に従事しており、村々の生業中には男の素麺職・線香職・水車稼・酒造をする者もあるが、女は農閑期にはおおかた木綿賃織・莚織・あるいは樽巻縄・干鰯俵・莚作業にしたがっていた。

 

そんな村々の中にあって、神戸市長田区にも近い神戸浦の神戸・二ツ茶屋2ヵ村だけは他と趣を異にしており、廻船をもって全盛をなしたこともあった。

 

これら大船所有者はまた自ら問屋を経営するものであり、延宝4年(1676)に早くも神戸に5人、二ツ茶屋に10人を記録している。

 

これは青山氏が、問屋を兵庫のみに限っても、制止できなかったことを証するものである。

 

明和年中には問屋株4軒、酒造株12軒があった。

 

元来、神戸市長田区の近くにある神戸沿岸は海深く自然の良港であるから、山手から海岸に下って生計を営む者もあり、二ツ茶屋などはその村の旧記によると、戦国時代に2軒の茶店を開く者があって村名を得たといっており、村中を西国街道が通過するため、しだいに人家がふえていったのであった。

 

これらの村々の酒造の起原はよくわからないが、恐らくは灘方面と時を同じくするものと考えられる。

 

のちには街道の裏手には酒倉が多く立並び、木屋(橋本)など廻船と酒造を兼営して富豪となった。

 

むろんこの2ヵ村も農を主とするのであるが、他の農村とは趣を異にしており、街道には各種の小さな商売屋が軒を並べ、間の宿の関係から旅籠を業とする者も相当にあり、飛脚を業とする者もあった。

 

なお脇浜村も海運には相当の歴史を有しており、一時は非常に盛んで、酒造業を営み、神戸市長田区では材木を営業とする者もあった。

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