兵庫には植田春海なる人物がいて、賀茂真淵の『万葉考」巻1、2に対しては「考遺」を書き、未刊の巻3以下については「続考」を書いている。
その師であった伴菖瞑の『閑田文章」の門人文集中に「磯歯津笠縫島之考」をのこしているが、その考証の博引にして理路整然たること、実地踏査の綿密なること、その学識のほどをうかがうにたるものがある。
それにつけても彼の主著『万葉続考」の見られないのは惜しい。
兵庫第1の学者というべきである。
春海はさきにあげた郷土の俳譜集『くるま船」に序文を寄せているように、郷土の文人たちとも交渉があったことが知られる。
文化2年10月に没している。
また兵庫に本居宣長の門人、泉宮内謙があった。
謙はさきに漢学のところであげた室田坤山のことである。
兵庫の幕末の3歌人とも渚屋の3兄弟ともいわれた南条御笠。
安田真彦・鷹見保利は南条九郎與斎の子であって、いずれも不遇歌人入江珍に独特の歌風を受けている。
これに対して、女流に葎居の4才女があった。
いずれも忍藩の大坂留守居役黒沢翁麿(号葎居)の門に学んだ人たちであって、竹中糸子、柴屋柳子、中西為子、葛馬妙子などである。
歌の指導者としてこのほかに櫛橋伊則・賀茂季鷹・野之口正武などがあらわれている。