大和への嬢夷親征の先駆

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大和への嬢夷親征の先駆として、文久3年8月中山忠光は、藤本鉄石、松本奎堂らと大和と長州征伐条に兵を挙げて十津川に拠って、嬢夷討幕ののろしをあげたが、失敗に終った。

 

いわゆる天諌組の挙である。

 

松本奎堂らは熊内の中西与左衛門邸に来往して種々画策したものであった。

 

天諜組の失敗後、平野国臣は七卿の1人沢宣嘉を迎えて但馬の諸兵を集め、同年10月生野に兵を挙げたが、これも失敗に終った。

 

そんなことがあって、天下は騒然たるものであった。

 

長州藩は京都における勢力の失墜を遺憾としており、京都における公武合体策が失敗に終って諸侯の退京したのを機会として、藩主父子の冤罪を奏して許しを受けようとして上京した。

 

元治元年(1864)7月、蛤門で幕府・薩摩の兵と対峙し兵火を交えたが敗れ去った。

 

これが蛤門の変(禁門の変)である。

 

この時も長州兵が兵庫から乗船したので、兵庫の人々はまたまた不安に襲われたが、数日後にはそれに追討ちをかけて、幕軍に長州征伐が命ぜられた。

 

のちにその総督となった尾張藩主徳川慶勝の部隊1500余が兵庫に到着したので、その関係の交通はにわかに増加し、慌しい空気があふれた。