元禄兵庫津絵図

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近世に入るにあたってどうして高持と無高がきまって行くのか、今後わかる。

 

なお「元禄兵庫津絵図」は種井家氏に所蔵されたもので、尼崎藩へ差出したものの写しである。

 

これによって、兵庫城あと、町の外郭、町並ごとに兵庫の町が、東は東出町、西は和田崎町のはしまで発展していた状態を具体的にみせてくれる。

 

その他寺院の所在、古湊川流路のあと、川崎の突出など諸々のことが、文書ではとうてい捉えることのできない当時の姿を示してくれる。

 

宝永7年(1696)に植田下省『兵庫名所記』が出版されて、兵庫案内記として珍重されたが、これは延宝8年(1680)に出版された『福原髪鏡』にもとついていることが最近わかった。

 

『髪鏡』は道案内を兼ねた俳譜集であって、宗因・貞室の句のほかに兵庫の人々の句をおさめている。

 

陸上交通近世における陸上交通は年とともに盛んとなり、宿駅の利用も多くなっていった。

 

兵庫津に早くと宿駅公的施設としての宿駅が設けられたことは、貞享2年(1685)の津中法度の中に見えている。

 

正徳2年(1712)の津中法度には馬子たちの行為に注意を与え、御朱印伝馬人足等は昼夜滞りなくつとめ、駄賃・伝馬賃についても規定以外にとってはならぬことをいっている。

 

兵庫の宿駅は神明町に本陣があり、歴代井筒屋(衣笠)又兵衛がこれに当り、同町および小広町に脇本陣が4軒あり、別に問屋場が東柳原にあって人馬の取扱いをし、25人25匹の定めによって御用継立に従事したのであった。

 

この宿駅は、岡方27ヵ町の責任によって経営を維持しなければならないことになっていたが、明和6年(1777)天領となってからは、助郷として近接の58ヵ村に補助させることとなった。

 

元来、助郷の制度は慶長11年(1605)江戸において実施せられ、村高に応じて正人馬を提出させたが、さらにそれでも不足する場合にはもっと広い範囲にわたる大助郷を課した。

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