過敏性腸症候群は欧米ではテレビでもよく紹介されるほど有名な病気です。(戸川利郎)
症状は、腹痛と下痢または便秘が関連し合いながら慢性に持続します。ところが、大腸内視鏡などの普通の臨床検査では、症状の原因となる病変が見つからないのです。過敏性腸症候群の症状は、心理的・社会的なストレスを受けると発症もしくは悪化します。症状を持つ人は不安を感じやすく、うつになりやすい性質があります。
<激しい消化管運動>
以前は、胃腸の不調がある、不安やうつがある-といった症状から、「こころの病気だ」「病気じゃない」「精神力で治る」「死なない病気だから、まあ、いいんじゃない?」と扱われることもまれではありませんでした。他人の痛みは他人の痛み、自分の痛みは万人の痛み。悲しいことですが、これが人間の限界だったのかもしれません。
ところが、内臓感覚を科学的に見る検査法が発達し、過敏性腸症候群の患者の言うことがまさに正しいことが判明しました。
これは、バロスタットというポリエチレンの風船を腸に入れて膨らませる検査です。健常者は30-40ミリ水銀ぐらいの圧力をかけないと腹痛はあまり起きませんが、過敏性腸症候群の患者の場合は20-30ミリ水銀ぐらいでも腹痛が起こります。これを、内臓知覚過敏と呼んでいます。
しかも、内臓感覚を脳機能画像で測定すると、視床、帯状回・前頭前野などの連合野、海馬、扁桃(へんとう)体、視床下部、島、中脳などが強く活性化していることが分かりました。
胃腸の運動も実測します。過敏性腸症候群の患者はストレスを受けると、大腸と小腸の運動が刺激され、健康な人よりも程度が激しい消化管運動になります。
われわれは、ストレス応答を起こす視床下部ホルモンのCRHが、過敏性腸症候群のこの病態の原因であることを突き止めました。CRHは41個のアミノ酸がつながったもので、視床下部の室傍核から分泌され、脳下垂体の前葉を刺激し、副腎皮質刺激ホルモンを放出させます。
CRHはそれだけでなく、内臓知覚過敏、激しい消化管運動、うつ・不安も起こすのです。そこで、CRHの受容体(受け皿のタンパク質)をふさぐ物質を過敏性腸症候群の患者に投与すると、これらのすべてが改善することも証明しました。(大畑亮介)
<抗うつ薬の使用も>
胃腸の症状は腸の問題、不安・うつは脳の問題です。それでは、内臓感覚やストレスはどこの問題でしょうか。この病気は脳と腸のつながりが重要です。これを「脳腸相関」と呼んでいます。
過敏性腸症候群は決して特殊な病気ではありません。症状そのものは人口の10-20%に及びます。生活の質(QOL)が低下することや、学業や就業状態に悪影響を与えること、経済的損失の大きさから、最近、非常に重要視されています。
患者あるいは症状を持つ人が自分でできることは、生活習慣の調整です。規則正しい食生活、食物繊維や乳酸菌による腸内環境の整備、十分な睡眠、適度の運動とリラクセーションを勧めます。
症状が強い場合、病院では高分子重合体や消化管機能調節薬を処方します。脳腸相関の調整に抗うつ薬を使う場合もあります。それでも苦しい場合には、プログラム化された心理療法が適応となります。
ブログ筆者の一人は、妊娠したことがきっかけで、看護師がいろいろ声をかけてくれるようになったという。
妊娠・出産や子育ての問題など、コ・メディカルの先輩ママから教わることは多い。
ここからプライベートな話ができるようになり、コ・メディカルの仕事についても理解を深めることができ、仕事がやりやすくなったとのことだ。
また、月経痛がひどいときに、つらさを理解してくれて気をつかってもらったこともあるというブログ筆者もいる。
一方、コ・メディカルの人たちから病気の相談を受けることがある。
たとえば、ハネムーンのときの月経の調節や妊娠のことなど男性医師には相談しづらい内容や子供の病気、親の介護などについて、女性医師ということで相談されたことも多い。
診療所
基礎研究を応用するためには、患部に薬剤を適格に届けるドラッグ・デリバリー・システム(DDS)に代表されるような工学的技術の助けが必要になります。
二つ目の理由は、必須因子の解析ができても、それだけでは応用に結び付かないためです。
たとえば、ある遺伝子Aを潰すと骨ができなくなりますが、骨欠損一般に遺伝子Aを投入しても骨はできません。
Aは数十ある必須因子の1つにしか過ぎないからです。
骨をつくりたいなら、複数の因子を患者さんに投入しなければならないのです。
三つ目は、効率の問題です。
驚くべき結果でも、1%の確率でしか起こらないものは臨床には応用できません。
四つ目は、ものづくりの観点の欠如です。
特に医療機器はそうで、要素技術をバランスよく統合する必要があります。
大学発の創薬や医療機器開発を活性化するためには、臨床だけ、基礎だけでなく、基礎から実用化まで包括的に進めるトランスレーショナルリサーチ(以下TR)の観点を導入することが大切です。
診療所
診断と治療の情報を可視化情報に基づく治療戦略として統合し、三次元モデリングによる術前シミュレーションを可能にしたのです。
三次元モデリングは、手術を安全に、しかも低侵襲に行うために非常に重要な技術です。
コンピュータ外科と精密治療用機器の優れた点はそれだけではありません。
術前に患部を特定し、それに対するアプローチが計画できるというのもこれまでと違う点です。
医師が術前に知り得る情報は限られていますから、術中の計測は重要な要素です。
また、見えない壁で周囲を守り、適切にマニピュレーション(治療処置)を行うことで、微細治療を安全・確実に支援できますし、精密誘導技術もできるようになります。
このような取り組みはまだ実用段階にはありませんが、今後私たちが目指したい方向です。
過不足のない正確な治療で確実な病変治療を行い、患者のQOLを向上する。
これは入院日数の低減、ひいては医療費の削減にもつながるでしょう。
大和への嬢夷親征の先駆として、文久3年8月中山忠光は、藤本鉄石、松本奎堂らと大和と長州征伐条に兵を挙げて十津川に拠って、嬢夷討幕ののろしをあげたが、失敗に終った。
いわゆる天諌組の挙である。
松本奎堂らは熊内の中西与左衛門邸に来往して種々画策したものであった。
天諜組の失敗後、平野国臣は七卿の1人沢宣嘉を迎えて但馬の諸兵を集め、同年10月生野に兵を挙げたが、これも失敗に終った。
そんなことがあって、天下は騒然たるものであった。
長州藩は京都における勢力の失墜を遺憾としており、京都における公武合体策が失敗に終って諸侯の退京したのを機会として、藩主父子の冤罪を奏して許しを受けようとして上京した。
元治元年(1864)7月、蛤門で幕府・薩摩の兵と対峙し兵火を交えたが敗れ去った。
これが蛤門の変(禁門の変)である。
この時も長州兵が兵庫から乗船したので、兵庫の人々はまたまた不安に襲われたが、数日後にはそれに追討ちをかけて、幕軍に長州征伐が命ぜられた。
のちにその総督となった尾張藩主徳川慶勝の部隊1500余が兵庫に到着したので、その関係の交通はにわかに増加し、慌しい空気があふれた。
官が必要な法制度をつくり、学が研究・教育を行い、産がその成果を活用したサービスを構築・提供することが希求されます。
2001年3月に創設された「推進する会」で顧問を務めさせていただく中で、医療保険者が医療給付以外に、真に組合員に役立つ事業がいかにできていないかが分かりました。
また、保険者機能を発揮するためには、いかに国や専門機関の協力が必要であるかを実感しました。
東大病院の教授を主任研究者とした厚生労働科学研究「保険者機能の在り方に関するモデル研究」(2001・2002年度)の中で、「推進する会」などの60の健保組合をフィールドとした大規模調査を実施し、保険者からの情報提供及び意識啓発のしくみづくりが組合員の適切な受診行動や今後の予防の普及に重要であることが示されました。
兵庫には植田春海なる人物がいて、賀茂真淵の『万葉考」巻1、2に対しては「考遺」を書き、未刊の巻3以下については「続考」を書いている。
その師であった伴菖瞑の『閑田文章」の門人文集中に「磯歯津笠縫島之考」をのこしているが、その考証の博引にして理路整然たること、実地踏査の綿密なること、その学識のほどをうかがうにたるものがある。
それにつけても彼の主著『万葉続考」の見られないのは惜しい。
兵庫第1の学者というべきである。
春海はさきにあげた郷土の俳譜集『くるま船」に序文を寄せているように、郷土の文人たちとも交渉があったことが知られる。
文化2年10月に没している。
また兵庫に本居宣長の門人、泉宮内謙があった。
謙はさきに漢学のところであげた室田坤山のことである。
兵庫の幕末の3歌人とも渚屋の3兄弟ともいわれた南条御笠。
安田真彦・鷹見保利は南条九郎與斎の子であって、いずれも不遇歌人入江珍に独特の歌風を受けている。
これに対して、女流に葎居の4才女があった。
いずれも忍藩の大坂留守居役黒沢翁麿(号葎居)の門に学んだ人たちであって、竹中糸子、柴屋柳子、中西為子、葛馬妙子などである。
歌の指導者としてこのほかに櫛橋伊則・賀茂季鷹・野之口正武などがあらわれている。
診療所 長田区
私のデスクの電話が鳴り、「さっそく意識の高い健保組合を数十集めたから研究会をはじめましょう」と。
間もなく「保険者研究会」が立ち上がりました。
月に数回、複数のWGに分かれて保険者は何をすべきか徹底的に議論しました。
「我々は社員や家族が健康になる姿が見たいのだ。
企業戦士として働いてきたが最後の数年聞は、組合員に健康と安心を提供できる健保組合に改善していくことに注力したい。
その結果、医療費も必要なレベルに落ち着くはずだ」。
このような話から、今後の「保健事業」は、予防を重点的に行うことが大事ではないかと感じました。
現在の神戸市長田区などの神戸・兵庫エリア村々には小間物屋・酒屋の1、2軒あるほかは、ほとんど農業に従事しており、村々の生業中には男の素麺職・線香職・水車稼・酒造をする者もあるが、女は農閑期にはおおかた木綿賃織・莚織・あるいは樽巻縄・干鰯俵・莚作業にしたがっていた。
そんな村々の中にあって、神戸市長田区にも近い神戸浦の神戸・二ツ茶屋2ヵ村だけは他と趣を異にしており、廻船をもって全盛をなしたこともあった。
これら大船所有者はまた自ら問屋を経営するものであり、延宝4年(1676)に早くも神戸に5人、二ツ茶屋に10人を記録している。
これは青山氏が、問屋を兵庫のみに限っても、制止できなかったことを証するものである。
明和年中には問屋株4軒、酒造株12軒があった。
元来、神戸市長田区の近くにある神戸沿岸は海深く自然の良港であるから、山手から海岸に下って生計を営む者もあり、二ツ茶屋などはその村の旧記によると、戦国時代に2軒の茶店を開く者があって村名を得たといっており、村中を西国街道が通過するため、しだいに人家がふえていったのであった。
これらの村々の酒造の起原はよくわからないが、恐らくは灘方面と時を同じくするものと考えられる。
のちには街道の裏手には酒倉が多く立並び、木屋(橋本)など廻船と酒造を兼営して富豪となった。
むろんこの2ヵ村も農を主とするのであるが、他の農村とは趣を異にしており、街道には各種の小さな商売屋が軒を並べ、間の宿の関係から旅籠を業とする者も相当にあり、飛脚を業とする者もあった。
なお脇浜村も海運には相当の歴史を有しており、一時は非常に盛んで、酒造業を営み、神戸市長田区では材木を営業とする者もあった。
診療所 長田区
予防事業の取り組みはどのように評価されるのでしょうか。
1つ目は、「特定健診」の受診率です。
2つ目は、「特定保健指導」の実施・参加率です。
これは、健康状態によって、医師・保健師・管理栄養士の専門職から面接などによる直接指導を1回以上受ける必要のある「動機付け支援」レベルの方と、面接などによる直接指導を3カ月以上継続して受ける必要のある「積極的支援」レベルの方に実施する指導です。
なお、実施・参加率が直接カウントされるのはこの2階層の方々ですが、これらに該当しない低リスク者の人数がもっとも多く、そうした「情報提供」レベルへの教育・啓発も重要とされています。
健診データとレセプトデータを突合分析した結果から、医療消費量では「情報提供」レベルがもっとも多く、数年後のコストに対するインパクトを鑑みると何らかの対応が必要と考えられます。
3つ目は、「メタボリックシンドローム」やその予備群がどの程度減ったかを見るものです。
今回の生活習慣病の予防にあたっては、内臓脂肪の蓄積に注目した「メタボリックシンドローム」という概念を活用することは周知のとおりです。
予防は1年で効果があらわれるものではありません。
もちろん、当初から意識が高くすぐに効果がでる人もいますが、5600万人のうちどのくらいの方に効果のある予防事業が実施できるかどうかは不明です。
そのため、国としても「特定健診」の受診率、「特定保健指導」の実施率という取り組みの努力と、成果としての「メタボリックシンドローム」の減少率を組み合わせた評価を行うものと考えられます。
診療所 神戸